草間彌生展『我が永遠の魂』&ミュシャ展『スラブ叙事詩』を見てきた
そう言えば、国立新美術館で草間彌生&ミュシャ展がやっているんだなぁと気付いたのが3月頃だったかと思う。早く見に行かなくちゃと思っていたものの記憶の片隅に追いやってしまっていた。
ふとしたことで思い出し、いつまでだったか検索すると、なんと草間彌生展が日曜日までだと判明。
それが昨日のこと。
慌てて今日出かけることとなった。
まぁ始まってからずいぶん経つし、今日あたりなら空いているだろうと乃木坂の駅に降り立つ。
改札を抜けると前売り券?が売っていた。
普段こんなところには来ないんだろうなぁと思わせる人たちが20人ほど並んでいる(私がその最たる人だけど)。「こんなとこで慌てて買わなくても今日あたりは空いているからチケット売り場で買えばいいのに」と思い横目で見ながら地上へ出た。
「はぁ?」
チケット売り場が長蛇の列。
慌てて先ほどの前売り券売り場に戻ろうと思ったけど、それもなんか悔しい。
なので、仕方なく列に並ぶ。その長さおよそ50メートル。
並びながらも、やっぱり明日朝一で出直そうかと悩むも、自分の出不精(デブ症ではない)を知っているだけに「ここは我慢」と自分に言い聞かせて耐え忍んだ。
ようやく売り場の窓口に到達すると、
「はぁ?」
草間彌生展は入場40分待ち&ミュシャ展は入場20分待ちの表示がモニタに。
ここまで並んでしまったので、やめる勇気もなくチケットを両方購入。購入時にお姉さんが発した「購入後の払い戻しはできませんがよろしいですか」の言葉が胸に刺さった。
草間彌生展
どちらを先に見るか考えながら入場。あまりの人の多さに慄きながら状況を把握すべく1階で開催している草間彌生展の列を探す。
「長い!」
すでに日曜日のディズニーランドの人気アトラクションの順番待ち状態のように列がうねうねしている。
これを見た瞬間「本当にこれに並ぶの?」と思い、心が折れかけたため、冷静な判断をするべくアップルジュースとりんごパンを購入し食す。確かにテンパっていたのだと思う。りんご✕りんごの組み合わせだったことに後から気づいた。
一息ついたところで、意を決して列の最後尾を探す。
「どこ?」
最後尾を探す。
「どこ?」
最後尾を探す。
列が外につながっていることを確認。
「はぁ?」
一息ついたこともあって気力がまだ続いている。
最後尾を探す。
「どこ?」
永遠と繋がっている。まさに本展のタイトルのよう。
「あった!」
おそらくその列のトータルの長さは200メートルくらいあったように思う(チョット大げさ?)。
どちらを先に見るかの確認のつもりだったが、列の最後尾を探すだけでエネルギーをかなり使ったので、そのまま並ぶことにした。
列は長かったが思ったよりも進みは早く、入場までは確かに40分ぐらいだったかもしれない。ようやく会場へ入った。
「おおっ!」
圧巻だった。
見たことも無いような展示方法で、思わず息をのんだ。
一面の新作(私にとってだけど)が、あの広い会場を埋め尽くしていた。
「すごい!」
テンション上がりまくりになった。
芸術の才がまったく無い私だけに、何に惹かれるのかが言葉にできない。
ただ感じるのは「切なさ」。
人それぞれ感じ方が違ってもいいのだろうけど、私にとっては「切なさ」なのだろうと思う。
ミュシャ展
あまりの人の多さに軽い人酔いを感じたため、一度外に出た。
制服たちがかぼちゃの前で記念写真。
修学旅行で美術館なんて洒落てるなぁとその姿を眺めながら、自分の幾年前のその当時に思いを馳せた。
体制を立て直し、いざミュシャ展へ。
20分の列を覚悟しつつ2階へ上ると列がなかった。
「助かった」と思いつつ会場へ。
そもそも今回のミュシャ展がどのような展示をしているか調べもしないで出かけたため、ここでも思わず感嘆符。
「おおっ!」
リトグラフ以外のミュシャの絵を見たことがなかったため、まさに度肝を抜かれた。
恥ずかしながらミュシャが油彩をやっていたことさえも知らなかった私にとっては、とても大きな驚きだった。
晩年の作品であることから、仕事としてでなく表現したかったものだったのかも知れないなと勝手に解釈してみた。
すごいと感じたのが、壁画の下絵とされているものだった。線の使い方が絶妙かつリアリティを感じるもので、これがあのような絵の下書きになるのかと思うと、そのつながりがイメージできなかった。右下に描かれた女性の目が忘れられない。なぜかピカソが14歳の時に描いたとされる絵を思い出した。
それと、彫刻があったのだけど、不思議なもので「あぁミュシャの作品だなぁ」と思わせるものだったこと。この彫刻を見た時に思い出したのは、綺麗な字が書けなかった私が、初めて英語の授業を受けた時に「アルファベットならきれいに書けるかも」と淡い期待を抱いたこと。絵と彫刻で表現方法は違うのに「通じるものがある」もしくは「通じてしまう」ことが興味深かった。
それにしても疲れたなぁ。
『勇敢な日本経済論』を読んでみた
タイトルに惹かれて手にした本だったけど、読んでみてタイトルと内容がどのようにリンクしているのかは理解できなかったのは私だけ?
高橋洋一さんと山口正洋さんの共著だが、山口正洋さんはこの本を知るまで存じ上げなかった。
高橋洋一さんの主張は、他の著書でも述べられているとおりで、この本だからこその新しさは感じることはできなかった。本書の内容についても対談形式となっていることもあり、正反対の意見のぶつけ合いはなく、どちらかと言えばお互いの意見を補完し合う内容だったよう。
個人的にだけど、国の主導による地方の活性化って、まったくもって無意味だと思っていて、この点については著者の2人も同じ主張っだったことが少しだけ嬉しかった。まぁこの2人は、どこかに依存して生きていく必要のない人達なので、言いたいことが言えるのだろうけど、同じ感覚を持った人がいることが分かって救われた気分。
定義できる正しさなんてものはないんだろうけど、この本の主張することってたぶん正しくて、端的に現状を表している気がした。
まぁ既得権益者は猛烈に反発するだろうけど。
ある意味リトマス試験紙代わりになるのかな。
テレビ局の行方(フジテレビ社長交代に思う)
最近のテレビを見ていて思うことが、「ネットの動画を使う番組増えたなぁ」ということ。
確かに、「ネットではこんな面白い動画がありますよ」といったリサーチ結果の紹介という側面があるのだろうけど、本来の面白いもしくは興味深い番組の制作能力が無くなってきたのかなと感じる。または、能力はあっても製作経費がないのか。
旅番組や料理番組を見てて特に感じるのが「番組自体が広告じゃないの?」ということ。そもそも民放はCMの販売で成り立っているのだろうけれど、番組で紹介される宿泊施設などから紹介料?を取って番組を作っているのではと思われる番組も見かける。
また、経済番組などでよく見かけるコメンテータも、所属会社のポジショントークではと思わせる発言をしているような気がする。そもそも経済の行方なんて誰にも分からないはずなのに、未来に対するコメントを求める方にも無理があるとは思うけど。
こんなことをフト感じたのはフジテレビの社長の交代というニュースを見たから。
数年前にフジテレビと堀江貴文さんの戦いがあったけど、今から思えばあの時が一つの転換点だったなって思う。もっと言えばテレビ局は転換点にしなければならなかったかと。
タラレバ言っても仕方ないけど、あの時から堀江さんがテレビ放送に対して何らかの影響力を発揮していれば、今の放送業界もかなり違っていたのではないのかなと思う。
既得権益保護の代表みたいな業界だから新しいメディアを受け入れられなかったのは分かるけど、最近のコンテンツの貧弱さには目を覆いたくなるばかりだし。
そう言えばあの時にフジテレビに手を貸したSBIグループは今の現状をどう感じているのだろう。今回のこのニュースに対してどこかのメディアが取材してくれないかなぁ?自分の首をしめるような取材はしないか?
そうそう、全然タイトルと関係ないけどNHKが受信料取ってバラエティ番組をやるのが個人的には納得できない。
『経済大変動』を読んでみた
伊藤元重さんの著書は、私のような一般人でも分かるように言葉を選んでくれていらっしゃるのでとても読みやすく比較的理解も容易なため、書店で見かけると購入する機会が多い。
基本的に現在の日本における経済政策のメインフレーム的な主張をされているので、現政権とも親和性が高いのかと(逆か?)。
書店で経済コーナのあたりに行くと危機感を煽るようなタイトルの本が目につくのだけど、現状の否定ばかりで対案的な主張がないものが多いためあまり手に取ることがなく素通りしてしまう。本来ならそういった書籍も読んでみて、自分なりの糧とした方がいいのかもしれないけど。
読んでみて思ったのが、技術や学術は確実に進歩していくだろうけど、新しい軋轢や問題が生まれることで衰退する部分もあるということ。いつの時代もうねりがあって、そのうねりにうまく対応していく知力・能力を持っていればチャンスを掴めるのかなって。
恐らくこの本は、そのうねりの振幅が大きくなる可能性があるよってことを伝えようとしてくれているものと思った。うねりが大きいってことはチャンスも大きいはず?
『虐殺器官』を読んでみた
先日の飲み会で、表現の限界とか言葉の虚しさとか、そんな話題の一角にSFに関する話題に移りかけたときに、ツレの紹介で出会った本だった。
伊藤計劃さんのことはそれまで全然知らない存在だった。興味を持ったのでその場で調べてみると既に他界されているとのこと。その原因が自分の置かれている状況と少しだけリンクしていたことから心惹かれてアマゾンに発注。
SF小説との分類をされているようだが、個人的にはエッセイに近いような感覚を覚えた。日ごろから自身が考えていた思考を表したとするならば、どちらも本質的な差異はないかもしれない。純粋に文学を志向した作品とは感じられ無かった。
印象深かった部分は多々あるが、もっとも強かったのはキャラクターが発したセリフの中で「仕事とは宗教~」という表現に出会ったことだった。この一文には唸らされた。
まだ働いていたころ、どこの会社にでもあったであろう仕事談議が、私の周りでもアフター5の時間を中心に存在した。個人的には仕事なんてメシを食うための道具としか考えていなかった私はあらゆる意見に対して「なるほどね」と答えてきたが、基本ノンポリだった(やや誤用)ため、アツク語る皆様のことを「みんな真面目だなぁ」と捉えていた。様々な意見を主張し合うその世界は、今から思えば皆さん自分の宗教観を戦わせていたのかと納得できる。基本的に自分の意見を主張するだけで他者の意見との統合を目指さないその姿勢は、現在入手できる情報からうかがい知ることのできる世界との差がないように感じた。
本書のストーリーとは関係ないところで惹かれたが、内容はとても面白かったので他作も読んでみようと思う。
『すべての教育は「洗脳」である』を読んでみた
電車に乗るのに本を持ってくるのを忘れたので、たまたま見つけた駅構内の本屋に立ち寄ってみた。
物色していると何やら刺激的なタイトルが目につき、手にしてみると堀江貴文さんの著作だった。
過去に何冊か堀江さんの本は読んだことがあり、面白かったので購入を決定。
読んでみて感じたことを何点か忘備録として残してみる。
1.国の体制を批判なり指摘することで、また逮捕されるなんてことはないのかなぁなんて他人事ながら心配してしまった。タイトルの根拠としての論理展開は見事だけれど、これって多くの人が「思っていても口にしないこと」だったりして、その辺の歯に衣着せぬ物言いに憧れを感じる。きっと堀江さんにしてみれば危機感があって、誰かが言わなければという使命を感じているのかもしれないけれど、すごいなぁと感嘆しきり。内容的にはタイトルに関する論考から、読者への応援歌に移っていくので、タイトルのインパクトは書籍を売るためのものかとも感じた。
2.一番感じたことは堀江さんにとって所属意識が希薄もしくは無いということ。恐らくグループに入ることよりグループを作るタイプなのかな。たぶん何かにおもねるなんてことはないんだろうなぁと、この点も憧れる。
3.本書の主旨としては、独立した個人へのなり方の手引き的なところがあって、これは現在進められている「働き方改革」の一部に通じるところがあると思う。働き方の多様性の確保について、個人的には非常に同意しているのだけれど、これって所属意識の低下を誘うものであって、本書が指摘している国が求める国民像とは違っているのではと気づかされた。まぁ厚労省と文科省で分野が違うからいいのか。