政見放送を聞いていて思うこと

色々な政党があって、色々な立候補者がいて、それぞれがいろいろな主張をしているのかと思えばそうでもないことに気がついた。

 

現与党は今までの政策の正当化。

現野党は今までの政策の批判。

 

まぁ、現与党は自分たちが主張してやってきたことだから、正当化するのはあたりまえのことかと。

だけど、現野党は批判するばかりで、「何がダメだったのか」「どうするべきだったのかの対案」「それはなぜか」の主張がまるでないことがとても残念。

 

批判することで同意を得ようとしているようだけれど、恐らくサイレントマジョリティーは気づいている。と思う。

だけど、前回の都議会議員選挙のようなことがあるから、サイレントマジョリティーなんていないのかな。とも思う。

 

 

テレビに出演する識者は「みんな選挙に行こう」と言っているけど、そもそも考えることを放棄して感情論に任せた判断の一票だったら、投票して欲しくないと考える人がいても不思議ではない気がする。

 

 

そもそも政治なんて、国や自治体における構成員からみれば、力がない人々が力から逃れて生きていくために必要な費用負担を決定する装置なのだから、本来有権者にとって嫌なことを決定して実行していくことが求められているなず。

なのに、街頭演説や政見放送ではそのあたりの主張や方法論がほとんどなくて、耳当たりの良さそうな言葉ばかりが聞こえてくる。

候補者のHP見てもあまり伝わってくるものがないし。

 

 

何をもとに投票の判断をすればいいのだろうとフト考えてしまった。

豊洲市場移転のニュースが静かに流れてる

衆議院議員選挙のニュースが多く流れている中で、コッソリと豊洲市場移転関連のニュースがあった。

 

 騒ぎが大きくなって(して?)から1年近く経つのかな?

 

結局あれだけ騒いで何を得たのだろう?

責任を明確にするとか言ってたような気がするけど、どんな責任が明確になって、それで何を得たのだろう?

延期することで大きな費用負担が発生したけど、その費用対効果はどのくらいあっただろう?

 

 

ひところのあの喧噪がまるでなかったことのように、来年の秋頃に移転が始まるとのニュースが流れている。

都知事に乗せられて、あれだけ世間を煽っていたマスコミが、これだけ静かにその結果を流すことに不自然さを感じる。

 

本来なら、あれだけ騒いだのだから、その結果について検証するべきなのに、都合が悪くなったのかな。

 

そもそも、ニュースの受け手側のリテラシーが低いからなのだろうけど、それを利用して売れる記事・報道のみを優先するその姿勢について、そろそろ振り返る必要があるのではないかと最近強く思う。

 

確かに民放や新聞社は売れてナンボだろうから、その辺のことは理解できるけど、NHKまでもが同じ姿勢なのがチョット。

 

このままでは衆愚政治ならぬ衆愚報道なのでは?

『金融庁vs.地銀』を読んでみた

タイトルに惹かれて購入してからおそらく1か月以上は経過しているはず。

ようやく読み終えた。

 

まぁ、読了まで1か月以上かかったのは、やはり単にあまり面白くなかったから。

裏話的なものはあまりなく、編者が過去に流したニュースをまとめて1冊の本にした感じ。

 

タイトルに「vs」なんて付けるから、お互いのせめぎ合いが描かれているものと勝手に解釈した私が悪いのだけど、それにしてもチョット。

 

確かに地銀が、というか大手行でもそうだろうけど、そもそも金融庁になにか物申すことなんてできるはずがないもんね。

 

 

そもそも金融庁の成り立ちってバブル以降の処理を、やらかしてしまった財務省(当時大蔵省だった?)から切り離して行わせるために生まれたはず。

確かに当時の金融機関は、大きな荷物を自ら下ろすことが出来ずにいたので、危機感を感じた政府が大ナタを振るう必要があったことは良く分かるところ。

でも、今の時期って何を仕事にしているのだろうと思う。

本によると、貯蓄から投資の流れを作るのと、金融機関の積極的な貸し出しを指導するみたいな紹介があったけど、それって金融庁の仕事なのかなぁと感じる。なんかやること無くなっちゃったから新しい何かやらないとねみたいな、まさに公務員の発想になっているような気がして。

確かに一度作ってしまった組織を、解体や再編するって大変だけど。

 

あぁそうか。金融庁なんて組織を作ることに財務省が応じたのは、席数が増加するからなのかも知れないなんてフト思った。内閣府が所管だろうけど影響力は大きいもんね。

 

そうそう、それはそれとしてニュースで流れてたけど、十八銀行親和銀行の合併について公取委がマッタをかけていること。

金融庁はどんどんやれ!と後押ししているのに公取委がマッタをかけるってどういうこと?

これは政府内で調整しないとまずいんじゃないのかなと、余計な心配をしてしまう。

政府内では同じような立ち位置だからライバル視しているのかもしれないけど、放っておけない問題を公取委自ら生み出してしまった感がある。

確かに金融庁の長官の存在が目立つから、公取委としては足を引っ張りたくなる気がするのも分かるけど。

リベラルの定義 保守の定義

今月予定されている衆議院選挙に向けて、希望の党の公認を得られなかった旧?民進党議員の身の振りに対して「リベラル系結集」との報道が目につく。

 

そもそも、このリベラルとか保守とかの定義ってとても曖昧なもので、時代の変遷とともに、その捉え方も変わってきていると思っている。

 

国民主権と言いながら、政治に対するリテラシー(誤用かも)のとても低い私たち(失礼!)にとって、これらの言葉をマスコミが率先して使うことに、ものすごい違和感を感じる。

 

同じ「リベラル」や「保守」の言葉一つとっても、恐らく朝日新聞産経新聞では共通の定義でない気がするし。

 

私にとって、今日現在において注目されている、旧?民進党の枝野さんをリベラル派と呼ぶには抵抗があるし、「リベラル派を受け入れない」と宣言した、希望の党の小池さんを保守派と呼ぶことにもものすごく違和感がある。

憲法改正を主張している安倍首相を保守と呼ぶことも何か変な感じ。

 

 

自分なりに定義すると、大きな政府既得権益保護を『保守』するのが保守派で、できもしない小さな政府を名目上目指して既得権益の打破を『自由』に叫ぶだけなのがリベラルかな。

イヤミすぎ?

 

 

いずれにしても、報道にあたってはもう少し気を使ってもらった方が、受け手側がキチンと理解できるような気がする。

『The Indifference Engine』を読んでみた

以前に呼んだ『虐殺器官』が面白かったので購入。

 

前回も感じたことだけど、この本もSFにカテゴライズするべきなのかなぁ?ということ。

「じゃぁ何?」と問われると、ボキャブラリの貧困な私には難しいけど。

 

 

興味深かったのは、人間(キャラクタのこと)を物理的に捉えていること。

死に対する概念が、読み手の私が抱いているものと違っている。

物語の中で「死」が出てくると、その場面における感情が表現されていることが多いけれど、この本というか伊藤計劃さんの作品では、それが感じられない。

だからこそタイトルが「The Indifference Engine」なのかも知れないけど。

 

この人間を物理的に捉えた表現は、森博嗣さんの「スカイ・クロラ シリーズ」「Wシリーズ」「M&Rシリーズ」に少しだけ通じるところを感じた。

そもそも人間の定義って何だろう?と思わせる表現に多く出会ったから。

 

脳の記憶や思考が電気回路なのならば、近い将来コピーが可能になる時代が必ず来ると思う。

現在はまだ確立されていないであろうから(希望的観測)SFとして分類することが可能なのだろうけど、これが現実となった時に問題となるのが人間の定義なのかなと。

 

「記憶や思考が出来なくなった肉体は人間ではない」と安直に考えてしまうけど、それって「この食卓にあるアジの開きは魚じゃない」と言っているのと同義になってしまうのであって、この辺が現在の人間の弱さじゃないかなと思う。

 

だから、人間を物理的に捉えることの意味について、あらためて考えてみようと感じた一冊だった。

日産の検査員問題?

新車の検査員が資格を持っていなかったということが分かって、日産自動車がマスコミを賑わせているよう。

 

確かに安全を担保するための仕組みとして、有資格者の検査が必要だというルールを定めたのであろう理屈は理解できる。

けど、結果としてそのルールを守らなかったことによって、何らかの不都合が発生したような報道は無いよう。

 

ルールを守らなかった日産自動車側に問題があったことは間違いのないことなのだけど、結果的に大きな不都合が発生していないのであれば、検査員が有資格であることを必要としない事実が分かったことにならないのかなぁ。

 

国が絡むとおそらく、国交省あたりが指導という形で文書を発行するのだろうけど、そもそもこのルールって必要だったの?という議論にはならないんだろうな。

 

今回のこの出来事をきっかけにして、これからの運営方法について改めて議論するなんて方向になれば、技術的にも行政的にも新たな進展が期待できるのかも知れないけど、国体を揺るがす事態と捉えられる可能性の方が大きい気がする。

政治とは(希望の党について思う)

政治って、力を再定義するための運用とそのコストかつ配分を決めるものであるから、政党もしくは政治家はその政策についてアピールするのだと思う。

選挙人はそれを聞いてマシなアピールに票を入れるのが選挙かと。

 

けど、前回の都議会選挙もそうだったけど、小池百合子さんの主張ってその政策について聞こえてこないことが不思議(マスコミが流さないだけかも知れないけど)。東京大改革って聞こえの良い掛け声は聞こえてくるけど。

 

都議選の時、都ファの立候補者にマスコミがビジョンを尋ねた時に、明確に回答することができない立候補者たちに票を入れてしまう都民に驚いたけど、今回の希望の党も同じような現象が現れてしまうのではないかと危惧してしまう。

アピールがない・ビジョンがない・政策がない候補者に票を入れるってどういうこと?

 

 

今回の総選挙で右往左往する民進党議員にも幻滅した。そもそも民進党を支持しているわけでないけど、矜持ってものがないのかと問いたくなる。

確かに議員になれなければ、自分の主張もできなくなるけど、自分の食費の確保のために、主張を捨てて(そもそも無いのかも知れないけど)東奔西走する姿は滑稽に見える。

モリカケ問題で首相の資質を問うていた人が、そもそも質問をする資質がなかったという笑えない出来事を作ってしまうような党だから仕方ないのか・・・

 

 

希望の党には、せめて公約の実現に対しての方法について明示して欲しい。そうでなければ選択のための検討材料がなにもないまま選挙になってしまうから。

 

 

でも原発ゼロなんて言ってしまっていいのかなぁ。これって政権を取れると思ってないから出てきたんだろうと思う。そう考えるとチョットズルイよなぁ。