マスコミの行方

マスコミの現況

一年ほど前に「テレビ局の行方」という記事を書いたけど、最近はテレビ局として捉えるのではなく、マスコミとして捉えるべきなのかな?なんて思って考えてみた。

 

インターネットが普及したことで、テレビ局が傾いてきたことは間違いのないことだと思う。

 

そもそもインターネットが普及を始めた当初(20年ほど前)は、新しいものに対する興味が優位だったと思うけど、使っていくうちにその即時性や経済性、利便性などなど、当時の情報伝達手段にはない有意性が顕著になってきたことによって、爆発的な普及につながってきたのかと。

ただ、まだインターネットの活用方法については模索が続いていたので、マスコミが作成するコンテンツ(報道も含めて)の方が優位性を保っていたと思う。

 

しかしながら、現在の充実(玉石混交だけど)したインターネット環境が整うと、マスコミはその優位性を確保できなくなり、コンテンツばかりか報道内容まで残念なものとなりつつある気がする。

 

マスコミもインターネットも、そのコンテンツを提供するにあたっては、多くが広告(スポンサー)に依存している部分が多く、その点から見れば経済規模がさほど大きくなっていない状況から、シェアの食い合いが発生しているはず。

つまり、インターネットの普及とともに、現マスコミに落ちるお金が減ってきていることは想像に難くない。

 

また、新聞という媒体の構造も、インターネットと比較すると、印刷・物流・配布という高コストかつ即時性の欠如といった面からあきらかに劣勢であり、そもそも競争にならない環境のはず。

 

だけど、今現在も新聞媒体は無くなっておらず、かろうじてその存在を保っているのは、記事の信頼性なのかと考えるけど、日本の新聞は署名記事がほとんどないことからその部分も疑わしいため、単に購読者の習慣に頼っているだけなのかも知れない。

 

コンテンツの劣化

高コストかつ収入の低下に悩まされているからなのだろうけど、マスコミから提供されるコンテンツが面白く感じなくなっているのは、ワタシの気のせいではないと思う。

 

ほとんどがインターネットから拾ってきたネタの焼き直しだし、何かを考えて作り出そうとする気概を感じないから(すべてとは言えないけど)。

 

また、テレビで最近よく見かける番宣。

あれは多分、番組内にも広告枠を作ることで、コストを回収しようとする方法なのだと思う。

 

あんなことやっていたら、コンテンツも広告だらけになってしまい、その局が放送するものがすべて広告になることで、その局の「表現したいもの=広告」になってしまうという自己矛盾になってしまうのではと、余計な心配をしてしまう。

 

また、報道もあまりにも読者よりになっていて、考える選択肢をあたえず感情に訴える内容ばかりなのが気になる。

自分よりも優位にあるものを引きずり下ろす快感を提供しているのだという観点から見れば、読者の求めるものを提供できていると言えばその通りなので、そういう意味ではサービス精神が旺盛なのかも知れない。

 

ただね、悲しすぎる。

 

マスコミの行方

現在の状況を生み出しているのは、高コストかつ収入の低下が、そもそもの発端なのかもしれないけど、この状況になるまで手を打ってこなかったのはどうなの?と疑問が残る。

 

あきらかに競合するであろうインターネットを軽視した結果なのか、取り込もうとしたけどうまくいかなかったのかは分からないけど、結果的に危機的状況にまで来ていることは間違いないはず。

 

サービスの向上(イヤミです)ばかりに目を向けすぎて、どこか信頼を失ってしまっていることがあるように感じてならないのだけど、それは何となくマスコミの傲慢さからくるもののような気がしてならない。

『シャーデンフロイデ』を読んでみた

前回の記事の「辞任は責任を取ることになるの?」で疑問に感じていたことが、この本で理解することができた。

 

ある意味ビックリ!

 

人間が生きていくため、もっと言えば種の保存のために備えた機能が原因になっていることが説明されていた。

もちろん、それぞれの考え方や感じ方にバラつきがあることは当然なのだろうけど、そもそもが本能に近い部分で制御されているらしいことに、ある意味愕然とするとともにチョットだけ悲しさを感じた。

 

向社会性は、現在の人間社会の形成に必要不可欠であることは理解できる。

残念ながら、その向社会性が人の足を引っ張る行為にも影響していることは、現時点では仕方のないことらしい。

でも、人には本能を制御しながら考えるという技術があるのに、それを放棄して感情に任せた意思表示をしてしまうことは何とかならないものなのかな・・・

 

せっかく考えることができる能力があるのにも関わらず、外部からの刺激に対して反応で応えてしまうことは人としてもったいないし、残念でしかない。

 

これって、教育で何とかならないものかなぁ。

それやったら、洗脳とかって言われちゃうのかなぁ。

世代が進めば、進化として変化するのかなぁ。

 

 

一人ひとりが考えるって行為について、もっと関心が持てないものだろうか?なんて考えてしまった。

辞任は責任を取ることになるの?

よくあるこのパターン。

「今回の一連の責任を取って辞任いたします」

これって、責任を取ったってことになるのかなと、いつも思う。

 

本来の責任を取るって、起こしたことに対する原状回復が優先されることかと思うのだけど、多くの場合がそれを放棄して辞任することが良しとされていることが不思議。

それって、一番楽だよね。

 

今回の森友のこともそう。

「世論は財務大臣の辞任を望んでいる」とか、記者が「辞任を考えていないのか」などと質問するのは、本当に愚の骨頂だと感じる。

 

そもそも、視聴者がそれを望んでいるから、そういう流れになっているのだろうけど、私たちは、それを望んでそうなったとしても何の得にもならず、特に今回の件についてはかえって損失を被ることになるはずなのに、何故それを求めるのかが分からない。

 

単純に、上位にいるヤツを引きずり下ろすことで、留飲を下げたいだけなのだろうけど、その結果自分の首を絞めることになることに何故気づかないのだろう。

 

 

この国の政治がいつになっても良くならないのは、野党がパワーゲームに終始していて、議論を深めることによって実力をつけてこないから、自民党がいつまでも甘い汁を吸ってしまうことにあるはず。

こんな、どうでもいいことに時間を使っていないで、本筋の議論がなされる国会であってほしい。

『血か、死か、無か?』を読んでみた

著者の頭の構造がどうなっているのか知りたい。

まぁ、知ったところで理解できないだろうけど。

 

他のシリーズでもそうだったのだけど、他のシリーズとリンクするという離れ業が今回も出てきた。

あまり本を読む方でもないので分からないけど、他の作家さんでもよくある手法なのかな?

ユニークなものだとしたら、この手法は当たると思う。

あっ!他のシリーズを読んでいるから分かるのであって、読んでない人には分からないサービスだから、新しい顧客を広げることにはならないか・・・

 

物語を読んで、心に響くもなにもないだろうけど、個人的に昔から「正しさ」の定義に興味があって、ひところ流行ったマイケル・サンデルの本にも心惹かれるタイプなのだけど、もう一つしっくりくるものがなくて考え中が継続してた。

けど、今回この本に出合って、すっきりさわやかに解消できたのが嬉しかった。

 

マイケル・サンデルの本ですっきりしなかったのは、人間が考える正しさを追及しているからだったんだなと納得できた(人間が考える人間のためのと言ってもいいかも)。

 

このシリーズを読み進めてきて思うのだけど、だんだん表現が「ついてこられるヤツだけついてこい!」的になってきて、あまり回転の良くない頭を持つワタシにとっては、だんだん読み進めるのに時間がかかるようになってきた。

 

他の人はスイスイ読めるのかな?

羨ましいけど、比較しても意味ないか?

民主主義の限界

テレビをつければ「森友問題」ばかりが報道されている。

これ、みんな興味のあることなのかな?

客観的に観察すると、マスコミが世論を感情的に煽って、

「私たちは皆さんの味方です。だから私たちの媒体を利用してください!」

って、自らを売り込むための道具にしているように見える。

 

また、野党側の主張もパワーゲームに終始してて、

この先の日本のあり方を議論するつもりが全くない

ように見える。

そもそも、議論する能力があるのかどうかもアヤシイけど。

 

前回の都議選の結果を考えれば、マスコミもパワーゲームに終始するプレイヤーも、有権者を感情的に煽れば自分たちに有利なベクトルを作ることができると知っているから現在のような態度に出るのであって、政権に向かって「国民をバカにするな!」と叫ぶことが一番国民をバカにしていることを知りながら止めない風潮を何とかしなければならないのだけれど、何とかするためには選挙で意思表示をするしかなく、ここでウィンストン・チャーチルの言葉が思い起こされる。

 

この、感情に支配される政治を脱却しない限り、民主主義の未来はないはずなのだけど、どうにもならないのは歴史が証明しているのかな?

ネットのネタをテレビが使ってる?

著作者に許可を得るとか契約次第で問題はないので、特にどうこう言いたい訳ではないんだけど、

ネットの動画をテレビで紹介するってどうなの?

って、本気で思う。

「ニュース番組なんだから、ネットの情報も紹介してもいいじゃん」的な言い分なのかも知れないけど、

マスコミとしての矜持は無いの?

って、声を大にして言いたい。

 

でも、まぁ、民放は100歩譲ればOKかも。

だけど、NHKがそれやったらダメでしょう。

 

 

何となく、そんなことを最近強く思う。

『捨てられる銀行』を読んでみた

書店でタイトルを見かけて購入した。

購入前に中身を確認するために、少しだけ読んだところは面白そうだった。

結果は、読了まで1か月かかってしまうという内容。

 

こんなにも行政にすり寄った内容だと思わなかった。

そもそも金融庁の業務って検査・監督・監視のはずだし、それが民間企業の運営方法まで口を出すのってどうなの?て考えさせる。

だいたい国がかかわる業界って、まず間違いなく成長力がないし、既得権益に胡坐をかくための業界維持を目的として行政が関わっているといっても過言じゃないと思う。

 

確かにリーマンショック後の不良債権処理の時点では、無理やりではあったけど金融庁の仕事は必要だったかと。

しかし、現在もその組織が存在しているのは、自分たちの組織を守るために無理やり仕事を作っているとしか思えない。

その無理やり作った仕事が、この本が主張する地銀に対する経営方針の指導なのかと。

指導は監督の一部だとするならばそうだと思うけど、それを地方再生に必要なことと論点をすり替えた行政運営になっているように感じる。

だいたい、現在の地銀を批判するならば、この状況を生み出した金融庁自身が自らを反省するべきだし、それを横において地銀の現状を酷く表現する描写は納得がいかない。

 

この本は、こういった金融庁の主張をフォローすることが目的のように感じられて、非常に不愉快だった。

著者は将来、御用学者にでもなりたいんじゃないかな?なんて邪推してしまうほど、金融庁礼賛の内容。

 

でもアマゾンの評価って高いんだよね。

まぁ、自分が買った本がつまらないと認めるのも勇気がいるけど。

ショックなのは『2』も同時に購入してしまっていること。

 

ちなみに、ワタシ自身金融関係とは無縁ですのであしからず。