理解は感情を抑制できるのか?

「頭の中では、分かってるんだけど、何て言うか胸のこの辺がモヤモヤして」なんて表現に出会ったことが何度かある。

 

個人的に、この感覚が良く分からない。

イヤ、分からないでもないから、どこかで同じ感覚に襲われたことがあるのかも。

過去の経験からかも知れない。

でも、このモヤモヤ状態って理解しているけど納得できない状態のことを指すのだろうけど、これって理解していないのでは?というのがワタシの見解。

 

 

 言葉が進化した場合感情がなくなるのでは?と昨日の記事にも書いたけど、言葉で他者との相互理解ができるようになった場合、納得はできなくても理解ができるのであればリスクが無くなるので「誰か」に対する恐れが無くなるはず。

と、いうことは「恐れ」がなくなるのならば「喜び」も無くなるのではとも考えられる?

 

でも、ダメか!

「誰か」が「私」を殺したいと考えていたならば、理解ができても恐れは生まれてしまうか。

対人関係から発生した殺したい願望は無くなるかもしれないけど、興味から発生した殺したい願望は無くならないから、それに対応した「恐れ」は必要だよね。

 

そうか、理解が感情を抑制できる条件として対人関係上と定義すれば、当てはめることができるのではないかなぁ?

 

あれ?自己顕示欲って他者がいるから生まれる欲求だろうけど、あれって欲求もしくは欲望なのかなぁ?欲って漢字を使うけど、あれは感情なのではないかなぁ?

そうだとすれば、他者の理解をしても対人関係上の感情は生まれてしまうのか・・・

 

欲と感情は違うと思うのだけど?

食べる行為に感情は無いし。

 

 

どうでもいいことだけど。

 

百年シリーズの言葉を借りれば、「定義があいまいだ」なのかな。

だから思考の道筋がつけられないのだろうと思う。