「つぶさにミルフィーユ」を読んでみた
言葉の成り立ちってなんだろう?ってグーグル先生に教えてもらおうとしたら、結構難しいページばかりがヒットしてしまって、
「ここまでのことを知りたいわけではないんだけど・・・」
と、すぐにあきらめた。
もう少しうまく検索すれば欲しい情報に行きついたかもしれないけど。
グーグル先生との付き合いもかなり長くなってきているにも拘わらず、いまだに捉えどころがないところがあったりして、ときどき私を惑わしてくれる。
まぁ、先生も進化しているのだろうから、私の進化が足りないだけかもしれないけど。
ただ、グーグルってよくできているなと感じるのは、知りたいことの深度に合わせた言葉を入力出来た時。
かなり的確な反応をしてくれるから。
おそらくグーグルは、人の表現の曖昧さを理解して、その時々の時代や環境に合わせた反応をするようにプログラムされているのだろう。
おそらく利用者はそんなところに利便性を感じているから支持するのかと。
この「グーグルでさえ理解してくれるのに、何で伝わらないんだろう?」ってことに出会うことがよくあった。
自分なりに言葉を尽くすのだけど、理解を得られず歯がゆい思いをしたことって、多くの人が経験していることだと思う。
著者からすれば、伝わること自体が奇跡なんだろうけど。
この本を読んで思ったのは、的確な反応を期待するのならば、的確な表現が必要だということ。
自分なりに言葉を尽くすだけではなくって、もっと表現を工夫することで伝わる深度が変わってくるんだろうって強く感じた。
単に語彙の多寡ってことではなくて。
まぁ、最初から伝えるのをあきらめてしまいたくなることも多々あるけど。
本当はこの記事で考えたかったことは、言葉の根本が伝達の手段なのかor思考の手段なのかってことだったのだけど、何かベクトルが違う方に向いてしまった。
また今度改めて考えてみよう。
たくさんのテーマで構成されているので、頭の中がかなりパニックになってるから文章が全然まとまらない。
『サイタ✕サイタ』を読んでみた
このXシリーズって、人の機微に触れるところを題材にしているせいか、俗にいうミステリーとして分類することに抵抗を感じる。
社会生活を営む上で、様々な場面において突出しないようにすることが、安全側だと思う。
まぁ、多くの人の多くの場面において、突出することはないんだろうけど、多くの人の一部の部分や一部の人の一部の場面において何かが突出してしまうことは、遺伝子の特性上仕方のないことないことなのかななんて思ってて、だから色んな事件が起こるのであって、社会生活上不可避なことだと捉えてた。
確かにそれを何とかしようとするのが、人の知性の挑戦なのだろうけど、事件の動機を調べても根本的な解決にはならない気がするのは少数派の意見なのかなぁ?
だって、遺伝子の性質上仕方がないのでは?と考えてしまうのだけど。
だからリスクのあることには近づかないようにするのが、一番の安全策だと思う。
とは言っても避けられないことばかりだけど。
そう、だからリスクはつきものなんだって認識が必要なはずなのに、あまりそういった意見に出会うことが少ない気がする。
事件に巻き込まれるのは不幸だけど、自分の行動がリスクを呼び込んでいないか考えることは必要じゃないのかなって。
ストーリーとは全然関係ないけど、何となくそんなことを考えさせられた一冊だった。
カタルーニャ州の独立について
チョロっと流れてくるこのニュース。
随分思い切ったことをしたもんだと思う。
想像するに、住民からの要望が強くて州政府側がそれに乗らざるを得なかったのだろうと思うけど、州首相はなんとしてでも止めるべきだったのではないのかなぁと考える。
住民は盛り上がっているから住民投票で勝てばOKみたいなノリのところがあると思うけど、州知事は政治家なのだから、この結果がどういうことになるのかは身に染みて分かっているはずなのに。
この話は、おそらくイギリスのブレグジット以上の結末をもたらすことになりかねない予感がする。
そこまではないだろうけど、中国の天安門事件を想像してしまった。
州民は自分たちのアイデンティティが守られた感があるのだろうけど、国にしてみればイデオロギーが壊されることは、国としてのアイデンティティを喪失してしまうことにつながると考えているはずで、徹底した弾圧を始めるはず。
州民がやっていることは、少し前の時代なら内乱と捉えられて反逆罪で裁かれる行為だという認識がないように見えるのが怖いところ(マスコミの報道の仕方によるのだろうけど)。
ただ、このアイデンティティやつはやっかいで、それでも蜂起することが正義だと勘違いして内乱に進んでいくのが過去に繰り返された事実。
最悪の事態にならなければいいけど。
スバルでも検査員問題
たぶん、この手のコトって自動車業界に限らず、いろいろな業界に広く存在していることなのだと思う。
ルール上ダメとされているけれども、運用上「まぁいいか」みたいなところがあって、これを許せないと感じる人がリークしたのが、今回の一連の出来事の始まりのような気がする。
別にそれを良しとしているわけではないけれど、現状を改めて考え直す転機となればいいなぁって。
そもそも車検って、人の五感で判断するものと機械で測定した結果で判断するものに分かれていたはず。
この五感の部分においては、検査員が有資格者であることに意味を見出すことはできるけれども、機械測定の部分に関しては検査数値が正常範囲に収まっているかどうかの判断なのだから検査員が有資格者である必要性がないはず。
一部報道による日産の件では、機械測定の結果について有資格者が判断していなかったということだった。
この報道が事実なのであれば、この数値確認に検査員の資格の有無を問う仕組みがおかしいし、それを是認するのであれば機械測定の結果の信ぴょう性を疑わざるを得ないことになるはず。
結果的にこの件についてツッコミすぎると、誰もが喜べない事態に陥ってしまうような・・・
しかし、このどうでもいいようなこと(怒られるか?)の代償に、スバルでリコール30万台だって。
これじゃ、給料上げられないよ。
「iPhone X」の予約に25分かかった
ようやく予約終了。
予約開始と同時に入力始めて、トントン拍子に進んだので楽勝~と思ったのもつかの間。
確認画面ではじかれた。
その後は20分余り繋がらないまま。
16:24あたりで再度繋がって予約完了。
ID使った予約だから入力項目少ないにも関わらず時間かかったなぁ。
確認メールも届いたので、とりあえず一安心。
でも時間かかったので、発売日に手に入れるのは難しいかな。
でも、チョットウレシイ。
理解は感情を抑制できるのか?
「頭の中では、分かってるんだけど、何て言うか胸のこの辺がモヤモヤして」なんて表現に出会ったことが何度かある。
個人的に、この感覚が良く分からない。
イヤ、分からないでもないから、どこかで同じ感覚に襲われたことがあるのかも。
過去の経験からかも知れない。
でも、このモヤモヤ状態って理解しているけど納得できない状態のことを指すのだろうけど、これって理解していないのでは?というのがワタシの見解。
言葉が進化した場合感情がなくなるのでは?と昨日の記事にも書いたけど、言葉で他者との相互理解ができるようになった場合、納得はできなくても理解ができるのであればリスクが無くなるので「誰か」に対する恐れが無くなるはず。
と、いうことは「恐れ」がなくなるのならば「喜び」も無くなるのではとも考えられる?
でも、ダメか!
「誰か」が「私」を殺したいと考えていたならば、理解ができても恐れは生まれてしまうか。
対人関係から発生した殺したい願望は無くなるかもしれないけど、興味から発生した殺したい願望は無くならないから、それに対応した「恐れ」は必要だよね。
そうか、理解が感情を抑制できる条件として対人関係上と定義すれば、当てはめることができるのではないかなぁ?
あれ?自己顕示欲って他者がいるから生まれる欲求だろうけど、あれって欲求もしくは欲望なのかなぁ?欲って漢字を使うけど、あれは感情なのではないかなぁ?
そうだとすれば、他者の理解をしても対人関係上の感情は生まれてしまうのか・・・
欲と感情は違うと思うのだけど?
食べる行為に感情は無いし。
どうでもいいことだけど。
百年シリーズの言葉を借りれば、「定義があいまいだ」なのかな。
だから思考の道筋がつけられないのだろうと思う。
『ペガサスの解は虚栄か?』を読んでみた
何年も前のこと。
「人間にとって感情って必要なのかな?喜怒哀楽でいえば少なくとも怒と哀は無くてもいいと思うんだけど・・・」
と、誰かと議論した記憶がある。
その議論の行きついた先を覚えていないんだけど、個人的に納得できなかった記憶だけが残っていた。
さっき、グーグル先生に同じことを聞いてみた。
すると、同じようなことを考えている人がいることが分かって、少しだけ嬉しくなった。
「こんな変なこと考える人が他にもいるんだなぁ」って。
その質問の回答の中に、感情は生命の維持に必要な原始的な要素から派生したと表した記事があって、
「あぁ、なるほど」と思った。
人にとっての不快なものって、生命維持になんらかの障害になりうるものに対してだろうし、その反対は障害から遠ざかった状態なのかなって。
この感情ってものは人間(もしくは人間と称されるあたりにおける進化の過程での生命体)が社会生活を営む術を覚えて行く中で、言語を習得する前において必要な能力(コミュニケーション)として進化(もしくは深化)させてきたのもかと考えてみた。
そう考えれば怒も哀も社会生活を営む上では必要なものだと理解できる。
だとすると裏を返せば、言葉が進化することによって、感情はいらなくなる可能性もあるってことか?
学習そして思考が深化することによって感情が生まれたのならば、小説ではあるけれども考えうる一つの未来の形なのかもしれないと思わされた一冊だった。
この本は、著者の森博嗣さんの過去の作品では見られなかった表現があって驚かされた一冊だった。
個人的にはいい表現だなと感じた部分があったのだけど、いままで著者があまり使ってこなかった表現だったので、もしかしたら読者サービス(本を売るための技法)の一端なのかもと勘ぐってしまった。
でも、おもしろかったなぁ。