『血か、死か、無か?』を読んでみた

著者の頭の構造がどうなっているのか知りたい。

まぁ、知ったところで理解できないだろうけど。

 

他のシリーズでもそうだったのだけど、他のシリーズとリンクするという離れ業が今回も出てきた。

あまり本を読む方でもないので分からないけど、他の作家さんでもよくある手法なのかな?

ユニークなものだとしたら、この手法は当たると思う。

あっ!他のシリーズを読んでいるから分かるのであって、読んでない人には分からないサービスだから、新しい顧客を広げることにはならないか・・・

 

物語を読んで、心に響くもなにもないだろうけど、個人的に昔から「正しさ」の定義に興味があって、ひところ流行ったマイケル・サンデルの本にも心惹かれるタイプなのだけど、もう一つしっくりくるものがなくて考え中が継続してた。

けど、今回この本に出合って、すっきりさわやかに解消できたのが嬉しかった。

 

マイケル・サンデルの本ですっきりしなかったのは、人間が考える正しさを追及しているからだったんだなと納得できた(人間が考える人間のためのと言ってもいいかも)。

 

このシリーズを読み進めてきて思うのだけど、だんだん表現が「ついてこられるヤツだけついてこい!」的になってきて、あまり回転の良くない頭を持つワタシにとっては、だんだん読み進めるのに時間がかかるようになってきた。

 

他の人はスイスイ読めるのかな?

羨ましいけど、比較しても意味ないか?

民主主義の限界

テレビをつければ「森友問題」ばかりが報道されている。

これ、みんな興味のあることなのかな?

客観的に観察すると、マスコミが世論を感情的に煽って、

「私たちは皆さんの味方です。だから私たちの媒体を利用してください!」

って、自らを売り込むための道具にしているように見える。

 

また、野党側の主張もパワーゲームに終始してて、

この先の日本のあり方を議論するつもりが全くない

ように見える。

そもそも、議論する能力があるのかどうかもアヤシイけど。

 

前回の都議選の結果を考えれば、マスコミもパワーゲームに終始するプレイヤーも、有権者を感情的に煽れば自分たちに有利なベクトルを作ることができると知っているから現在のような態度に出るのであって、政権に向かって「国民をバカにするな!」と叫ぶことが一番国民をバカにしていることを知りながら止めない風潮を何とかしなければならないのだけれど、何とかするためには選挙で意思表示をするしかなく、ここでウィンストン・チャーチルの言葉が思い起こされる。

 

この、感情に支配される政治を脱却しない限り、民主主義の未来はないはずなのだけど、どうにもならないのは歴史が証明しているのかな?

ネットのネタをテレビが使ってる?

著作者に許可を得るとか契約次第で問題はないので、特にどうこう言いたい訳ではないんだけど、

ネットの動画をテレビで紹介するってどうなの?

って、本気で思う。

「ニュース番組なんだから、ネットの情報も紹介してもいいじゃん」的な言い分なのかも知れないけど、

マスコミとしての矜持は無いの?

って、声を大にして言いたい。

 

でも、まぁ、民放は100歩譲ればOKかも。

だけど、NHKがそれやったらダメでしょう。

 

 

何となく、そんなことを最近強く思う。

『捨てられる銀行』を読んでみた

書店でタイトルを見かけて購入した。

購入前に中身を確認するために、少しだけ読んだところは面白そうだった。

結果は、読了まで1か月かかってしまうという内容。

 

こんなにも行政にすり寄った内容だと思わなかった。

そもそも金融庁の業務って検査・監督・監視のはずだし、それが民間企業の運営方法まで口を出すのってどうなの?て考えさせる。

だいたい国がかかわる業界って、まず間違いなく成長力がないし、既得権益に胡坐をかくための業界維持を目的として行政が関わっているといっても過言じゃないと思う。

 

確かにリーマンショック後の不良債権処理の時点では、無理やりではあったけど金融庁の仕事は必要だったかと。

しかし、現在もその組織が存在しているのは、自分たちの組織を守るために無理やり仕事を作っているとしか思えない。

その無理やり作った仕事が、この本が主張する地銀に対する経営方針の指導なのかと。

指導は監督の一部だとするならばそうだと思うけど、それを地方再生に必要なことと論点をすり替えた行政運営になっているように感じる。

だいたい、現在の地銀を批判するならば、この状況を生み出した金融庁自身が自らを反省するべきだし、それを横において地銀の現状を酷く表現する描写は納得がいかない。

 

この本は、こういった金融庁の主張をフォローすることが目的のように感じられて、非常に不愉快だった。

著者は将来、御用学者にでもなりたいんじゃないかな?なんて邪推してしまうほど、金融庁礼賛の内容。

 

でもアマゾンの評価って高いんだよね。

まぁ、自分が買った本がつまらないと認めるのも勇気がいるけど。

ショックなのは『2』も同時に購入してしまっていること。

 

ちなみに、ワタシ自身金融関係とは無縁ですのであしからず。

『アマゾンが描く2022年の世界』を読んでみた

書店で見かけてタイトルに惹かれて購入。

アマゾンのこの先の展開を予想するヒントになればいいなと思って。

結果的には非常に良い本で、期待以上の内容だった。

 

前半は著者によるアマゾンの分析が理路整然と展開されていて、読み手としてもフムフムといった、当初期待していた内容だった。

けど、後半になると物事の捉え方を今までにない切り口で(私にとってだけど)紹介されていて、その理論を基にアマゾンの実態を解説していて、それがとても衝撃的だった。

もちろん単に私の知識不足からくる衝撃なのだろうけど、色々な本を読んできたなかで新たな視点を知ることができたのが期待以上だったところ。

とくに「なぜ人はモノを買うのか?」といったところや、「リーダーとマネジメントの違い」の表現には感銘を受けた。

 

ボキャブラリ不足でうまく表現できないことがもどかしい。

ただ、この本で表現されているものは、単にアマゾンの説明ではなく、自分のこれからのビジョンを切り開いてくれるヒントを多々与えてくれるものだった。

しばらくは、この本を手元に置いて、主要な部分を繰り返し読み返すことで糧にしたい。

10代の妻を殴る?→マスコミの罠

先日こんなニュースが流れてきた。

言葉の中に「10代の妻」という表現が入っていたために「ん?」と引っかかった。

「何でそんな言い方するのだろう?」と思ったのがきっかけ。

 

渦中の人は、書店でよく見かける著者だったこともあって、その主張について調べてみると、個人的には「チョット面白い」人だということが分かった。恥ずかしながら著作を読んでみたことがない。

 

 

簡単にその答えが見つかる。

マスコミに批判的

だということ。

 

単純に自分たちに批判的は人間に対する報復として、その人の特異点を攻撃しようとする意図だった。

 

 

これってどうなの?と。

マスコミが自分で自分の首を絞めることになりかねないのに。

まぁ、視聴者をバカにしているからこんな表現になったのかと推測。

 

 

渦中の人を擁護するつもりは毛頭ないのであしからず。

「つぶさにミルフィーユ」を読んでみた

言葉の成り立ちってなんだろう?ってグーグル先生に教えてもらおうとしたら、結構難しいページばかりがヒットしてしまって、

「ここまでのことを知りたいわけではないんだけど・・・」

と、すぐにあきらめた。

もう少しうまく検索すれば欲しい情報に行きついたかもしれないけど。

 

グーグル先生との付き合いもかなり長くなってきているにも拘わらず、いまだに捉えどころがないところがあったりして、ときどき私を惑わしてくれる。

まぁ、先生も進化しているのだろうから、私の進化が足りないだけかもしれないけど。

 

ただ、グーグルってよくできているなと感じるのは、知りたいことの深度に合わせた言葉を入力出来た時。

かなり的確な反応をしてくれるから。

 

おそらくグーグルは、人の表現の曖昧さを理解して、その時々の時代や環境に合わせた反応をするようにプログラムされているのだろう。

おそらく利用者はそんなところに利便性を感じているから支持するのかと。

 

 

この「グーグルでさえ理解してくれるのに、何で伝わらないんだろう?」ってことに出会うことがよくあった。

自分なりに言葉を尽くすのだけど、理解を得られず歯がゆい思いをしたことって、多くの人が経験していることだと思う。

著者からすれば、伝わること自体が奇跡なんだろうけど。

 

 

この本を読んで思ったのは、的確な反応を期待するのならば、的確な表現が必要だということ。

自分なりに言葉を尽くすだけではなくって、もっと表現を工夫することで伝わる深度が変わってくるんだろうって強く感じた。

単に語彙の多寡ってことではなくて。

 

まぁ、最初から伝えるのをあきらめてしまいたくなることも多々あるけど。

 

 

本当はこの記事で考えたかったことは、言葉の根本が伝達の手段なのかor思考の手段なのかってことだったのだけど、何かベクトルが違う方に向いてしまった。

また今度改めて考えてみよう。

 

たくさんのテーマで構成されているので、頭の中がかなりパニックになってるから文章が全然まとまらない。