資本となるか資源となるか
今、ふとそんなことを思った。
すべては自分次第。
マスメディアの凋落が止まらない
結果的に、自分で自分を貶めていることに気付いているはずなのに止められないのは、自分自身がそれを生業としているから?
それにしても恥ずかしいという概念さえも忘れてしまったと言わざるを得ないと思う。
権力の監視と言えば聞こえはいいけど、権力者の発言の上げ足を取って、それを自分の収入に転嫁する状況は、傍から見ていて悲しくなる。
百歩譲って、それを望んでい視聴者や読者がいるから、その期待に応えているのだという論理は分からなくもないけど、それは権力の監視なのですか?本質を探る行為なのですか?と、小一時間問い詰めたくなる。
今、彼国との軋轢が色々ネタになっているけど、そういう国民性になるように仕組んできた結果が、現在の彼国の現状なのであって、それを報じる日本のマスメディアも、同じようなものだよね。
彼国を糾弾しておきながら、やっていることは同じという、悲しい現実。
投票率を上げることに意味はある?
選挙に行こうキャンペーンや投票時間の延長など、投票率を上げようとする試みが見られるけど、実際のところ投票率が上がることによって良いことってあるのかな?って、ふと考えてしまった。
投票率が上がることによって、広く民意を反映させることができるというのが、第一義的なところなのでしょうけど。
確かに、投票率が上がれば上がるほど、実態に即した結果につながるけど、それって良いことなのかな?と考え込んでしまった。
大切なのは、投票に行くことの意義を浸透させることのほうが先であって、その結果投票率が上がるのは良いと思うけど、単純に投票率を上げることを目的にすることは、何かが違う気がするのはワタシだけなのか?
まぁ、ワタシの思考回路がショートしているのは、今に始まったことではないけどさ。
『自己矛盾劇場』を読んでみた
タイトルに惹かれて手に取ってみた。
厚さと文字数の割に高価格。
でも内容は、私にとって高価値だった。
この著者の他の著作を調べると、何となくつながりが見えてきて、伝えたいことを様々な視点から表現しているような印象を受ける。
そして、興味深いのが、抽象の概念を具体的に表現しようとしていること。
これは、恐らく読者に伝えるための著者の工夫なのだろうけど、だいぶ苦心されたのではないかな。
内容が内容だけに、表現すればするほど、まさに自己矛盾に陥りがちになるので。
「メタ」と「抽象」この2点が、本書の骨格でしょう。
とても面白かったので、他の著作も読んでみようと思う。
そんなに保釈される時の映像を見たいか?
今、先日麻薬関係で逮捕された芸能人が、保釈されるらしくニュースで流れていた。
映像では、その瞬間を捉えようと、マスコミ各社が警察署の前で構えている様子が見て取れたけれど、そもそも視聴者はその映像を見たいのか?
保釈されるときの映像を配信することの意味って何?
視聴者が、それを望んでいるとでも思っているの?
何となくだけど、マスコミが被疑者を誤らせたいという意思を感じる。
視聴者はそんなことを求めていないけど、マスコミの論理としては「視聴者が被疑者が謝る姿を見たいから、それに応えているのだ」ということなのかな?
何だか、あまりにも視聴者をバカにしている気がして、気分がすぐれない。
まぁ、イヤなら見るなということなのだろうけど。
それにしても、警察署の前で異様なほどの数のマスコミが陣取っている様子は、異様さを感じる。
他に、やることはいくらでもあると思うのだけど。
雫石の水道が止まる件
ニュースでいろいろ煽っているけど、
何が問題ですか?
そこに居る人は承知の上で居るはず。
そこに住んでいるのだから、その地域の実態を調べているはずでしょ。
勝手に過疎地に住んで、
「私がここに住むと決めたのだから、行政は水道を引かなければならない!」
なんて意見が通るはずがない。
その少数派のために、多くの納税者が負担をすることは道理が通らないはず。
確かに、そういう対応をする自治体もあるけど、雫石はそうではなかったってことでしょ?
知らなかったからというのかもしれないけど、それならばすべての犯罪者は法律を知らなかったからで許されるはず。
それを承知で済んでいるのに、
「何をいまさら」
って思うのだけど。
こう言う意見はマイノリティでしょうか?
自由であることに対しての自己責任をはき違えている気がする。
『天空の矢はどこへ?』を読んでみた
小説という形をとっているけど、エッセイとして読むと非常に面白いな。と、言うのが第一印象だった。
人という概念を、予測される未来の環境から捉えた作品とでも言えば良いのかな。
うまく言えないけど。
ワタシにとって人間とは(そんな大上段に振りかぶる必要はないのだけど)、生物の一種であって、遺伝子が未来へつながれていくための媒体の一つだと思ってる。
なので、人間が生物界の頂点だとか、そんな認識は全くなくて、この本に出てくる
「上」の概念は人間特有のものだし、人間のアイデンティティのひとつと言っても過言ではないと感じている。
遺伝子からみれば、人間を含めた有機体って、ただの媒体に過ぎないのだから、人間が言うところの「上」の概念を持ち出すならば、遺伝子は人間より「上」ということだよね。
そう考えると、人間がよく議論(議論なのかな?)する題材の「愛」とか「正義」とかって、まったく意味をなさないものだし、上である遺伝子からみたら、滑稽な動き(状態?)なんだろうなって。
そうなのよ。
個人とか社会とかの概念って、人間が作り上げた幻想に過ぎないのだから、そこにとらわれずに自由にすればいいのさ。
すべての行動は、結局のところ滑稽なのさ。
とは言いながら、社会の枠にとらわれてしまうのも、人間としてのアイデンティティの一つだよね。
そうした認識を持ってしまうのも、遺伝子の仕業なのだけど。
なんて、ことを考えてしまった一冊だった。