ビックリ(東京都議会議員選挙)

あくまでも個人的見解だったけど、小池都知事主導の都民ファーストの会に票を入れる都民なんていないと思ってた。

 

日本の中心地である東京の住民って生活コストの高い所だから、それなりの収入を得ている人が多い=それだけの知識・判断力を有する人たちの集合体だと思っていたから。

 

恐らくこの結果って、都民自ら自分の首を絞める結果になるだろうと予想。

 

だって、小池知事って今のままだと何の結果を出すことが出来ないだろうから。

 

一番怖いのが、国政に影響が出るであろうこと。

世界から、日本ってダメだよねって烙印が押される可能性が出てきたことが一番怖い。

 

 

とにかく驚いた。

 

でも、まぁ、自分自身が3σあたりで生きているのだろうから、自分の感覚が一般とのかい離が大きいことは想像できるけど。

 

都民でないからどうでもいいけど、日本全体が沈む可能性を考えると、その準備をした方がいいのかな。

『生涯投資家』を読んでみた

人って年を取ると丸くなるって言うけど、そうかも知れないなぁって思ったのが読後の感想。

書店で手にしたとき1,700円✕税という値段が「チョット高いなぁ」と思ったのだけど、結果的に「安い買い物だった」と思わせる内容だった。

結構売れているみたいだけど、恐らく購入した人って著者に対して肯定的な人だろうし、本来著者が主張したいであろう層は手にしないだろうなと思う。

そもそも書籍って、新しい読者層を獲得するためには不向きなメディアだし、だからこそ何らかの形でeコマースとの融合は必要かと。

 

 

著者の村上世彰さんもそうだけど、堀江貴文さん、佐藤優さんなど、2000年以降に多くのバッシングを受けるとともに時代に飲み込まれていった人たちが最近になって復権?してきていることを、少し嬉しく思う。

 

今から思えばあの時の風潮は異常だったと思う。もちろん今の時代においてもマスコミが扇動する(先導するでもいいか)劇場型の世論の形成には目を覆いたくなることばかりだけど、世間から2σ3σあたりに生きている人たちをやり玉にあげて、叩いて叩いて叩きまくる風潮に戦慄を覚えた記憶がある。

差別を題材にした報道がなされることがあるが、あの時も一つの差別だよなぁと感じていた。

 

ひとつ間違いのないことは、3人とも本質をついた発言をしていたこと(本当は正しい発言と言いたいとこだけど)。世間を誘導している2σ3σあたりの人にとって都合が悪かったのだろうけど。

でも、逮捕までするか?とあの時は強く感じた。

 

結局3人の逮捕によって得るものがあったのだろうかと思うと、あったのではないかと感じる。3人とも当時より自由な環境に身をおいていらっしゃって、1σあたりを生きている人たちにとって大きなインパクトを与える活動をしているように思う。

ただ、その代償としても逮捕という事実は大きすぎるかと。

 

今回の出版は村上さんの意地だったのかなって思う。

あれだけ叩かれて逮捕までされても信念としてアピールしてきたことを形として残すとともに、閉塞している社会に対してその信念が新しい時代に必要なファクトであることが伝えたかったのだと感じた。

『国家の矛盾』を読んでみた

新潮新書 自民党高村正彦✕国際政治学者三浦瑠麗さんの対談本

 

いつだったか最近のことだったけど、テレビをザッピングしているときに政治を語るイメージにそぐわない人として三浦さんを見かけて「どんな話をする人なのだろう?」と興味を惹かれて視聴したのが三浦さんを知ったきっかけだった。

その番組は終了時間が近かったらしく見ることのできた時間は5分ほどだったけど

「天才が現れた」

が感想だった。

今まで見てきた政治家・学者・評論家とは一線を画す表現で核心をつく言葉に驚いた。この表現だと敵が多いだろうなと思いネットで調べると、やはりたくさん否定的コメントが。

よくあるパターンだけど、その多くが何かを貶める発言によって自分の優位性をアピールしようとする愚の骨頂なる主張ばかりなのはご愛敬。

わずか5分ほどだったけど、三浦さんのキレが伝わってくるには十分な時間だった。

居ても立っても居られずに、近くの書店へ出向いて購入したのがこの本だった。

 

自民党の高村さんとの対談本だけあって、内容的には自民党の主張が色濃く出ているところは仕方のないところ。ただマスコミが手抜きをして報道しない、自民党が本来言いたかったことはきちんと表現されていたかと思う。

残念なのはマスコミに踊らされる人は、そもそもこの手の本を手にすることはないだろうし、手にする人は本質を理解しているだろうと思われること。ただ「はじめに」と「おわりに」にあるように、今回の安保法制の道筋について自民党側からみた記録としての価値は十分にあったかと思う。

 

本文は意外にも表現豊かで、「良くこの言葉を載せたな」と思わせる部分も多々あり、結構面白かった。校正段階でかなり気を使ったのでは?と感じる。

 

本文に関することをここに載せるのは良くないことと理解はしているけど、これからは不利益の分配の時代に差し掛かっているという言葉に唸らされた。

『多動力』を読んでみた

本文でも著者が述べている通り、基本的に過去の著述や発言を取りまとめたものだった。

ただ、表現が刺激的なので堀江ワールド全開って感じ。

 

この手の本って、著者の世界観に浸るというか酔うためのメソッドとして人気が高い気がする。

 

 

今、”多動力”ってグーグル先生に入力したら候補として”多動力 意味”って表示されて笑った。

『ムカシ✕ムカシ』を読んでみた

面白かった。

私にとって、以前から考えていたことに近いことがモチーフとなっていたこともあって、とても興味深かった。

 

いつぞやのネットの記事に、タレントのタモリさんが戦争の起こる理由についての見解を述べている記事があった。記事の出典まで確認しなかったので、本当にタモリさんが述べたかどうかは分からないけど、「そういう考え方もあるのか」と思った。

ネットでは、その記事に対して概ね肯定的であり、多くの人の賛同を得ているかの印象を受けた。

 

そもそもアイデンティティなるものが人間だけにあるものなのか、その他のモノにもあるのかは分からないけど、これがクセモノだと私の認識。

社会性を営むことにより芽生えた概念なのか本能なのかは分からないけど、現時点において人間に根付いている事実を鑑みれば、必要な要素だったのかなと認識している。けど、私自身所属意識がとても薄く、社会から外れたところで生きているので、感覚でとらえているだけなんだけど、それが私のアイデンティティと言えばそうなのかもしれない。

 

このアイデンティティというものは個人に根ざしているのみでなく、家族単位で醸成されたり、村・町・県・地方・国・会社・宗教・人種・イデオロギーといった社会の構成単位で生まれると考えていて、各構成単位ごとにおけるアイデンティティの対立が争いに発展していくのだろうというのが私の考え方なので、「好き」という感情によるものが戦争を生むという表現にあまりピンとこなかった。

 

現在ある争いごとの原点って、アイデンティティを守ることに由来しているものがほとんどと言ったら言い過ぎなのかなぁ。

 

そんなことを思い起こさせる一冊だった。

『仮想通貨とブロックチェーン』を読んでみた

書店で見かけたときに、仕組みや解説の類の本かと思い購入。

読み進めると、成り立ちや未来を俯瞰したような内容だった。

かと言って、内容的に残念なものではなく、かなり興味深く引き込まれるものだった。

 

1.貨幣の存在

 1)貨幣が存在することによって力(暴力や権力)の支配から逃れられる側面がある。

 2)コミュニティの周縁で利用されることにより交易の利便性を図るとともに、コミュニティ内に経済原理を持ち込まないための手段。

2.ビットコインはブロックチェーンの関係

 ビットコインはブロックチェーンの技術によって実現されているが、ブロックチェーンがビットコインの専用技術ではない。

3.ブロックチェーンの未来

 正当性を証明する技術として幅広い分野での応用が期待されている。

4.仮想通貨とソブリン通貨

 仮想通貨が浸透した場合、既存の銀行の存在の必要性が問われる可能性があるため、国家の運営に影響を及ぼす可能性がある。

 

 

私的なメモとして記録。

 

『錬金』を読んでみた

前作・前々作の「拝金」「成金」がそこそこ面白かったので購入。

以前の作品の続きのようだけれども展開が全く異なり、少々読みづらかったかな。

 

正直なところ印象深かったところはなかったけれども、PCが世の中に普及し始めたときのことを思い出した。

 

当時はNECの98が絶頂期で、対抗馬としてDOS/Vが他社から販売されていた。何故にあんなに98が売れたのかは分からないけど、日本の技術力の高さを信じた日本人の日本製に対する信頼感からだったのかなと今は思う。

DOS/Vも98もWindows95を乗せていたので、操作性は変わらなかったのではと思うけど、何故か98の方が勢いがあった。

 

この本を読んでいて、どうしてNECが負けたのかを考えた。もちろん理由なんて分からないけど、現在の日本におけるシャープや東芝の置かれている状況と原因は近いのではと。

 

GoogleもAppleも基本的に自社工場は持たず、ハードウェア製品は外注で対応していることと比べると、あの頃のNECはすべてを自社で賄うべく独自路線を進んでいたと思う。もちろんCPUなどは他社製品を使っていたけど、メモリなんかは自社製品だった気がする(違ったらゴメンナサイ)。

 

確かにあの時のNECはPCの分野で世界征服を狙っているかの如く勢いがあった。

 

一方IBMは他社に技術をライセンスしていたようで多様なメーカから互換PCが発売されていた。また、完成されたPCのみならずPC内の数々の部品まで様々なサードパーティ製があったので、少々マニアックな人たちは自分で部品を調達して自分仕様のPCを使っていたと思う。

そう言えばクロックアップなんてずいぶん流行った気が・・・

 

結局、勢いとともに会社自体が大きくなることで、自分たちの強みが見えなくなってしまい、時代の変化に対応しきれなくなってしまったのかななんて。

 一時の成功にしばられて、その体験に拘泥してしまったのが今の日本の状況なのかななどと感じる。IBMなんてPC事業売り払ったことを考えるとその決断力・実行力はすごいよね。

 

本当はこの本を読んでいて考えたUNIXとWindowsの関係について記録しようと思っていたんだけど、まぁいいか。今度気が向いたら改めて。