財務省vsマスコミ

財務次官の件で、連日マスコミがヒートアップしているけど、どこまで本気でツッコもうとしているのかに興味がある。

 

朝日新聞が、当初記事にするのをやめたことは、まさに忖度であって、この先のことを考えたうえでの判断だったのでしょう。

 

ただ、他のマスコミも追随してきているので、ここは勝負に出ようと決意してアピールに出た気がする。

 

今、マスコミがタッグを組んだかのように一斉に報道競争をしているのは、どこかに引っかかるものを打ち消すための行動のように見える。

 

この引っかかるものについて、この事案の始まりの頃には識者と呼ばれる人たちも発言をしていたけど、昨日あたりからはベクトルを変えて右へ倣えの様相となってきているのは、口は災いの元であることをまさに認識しているからなのかな。

 

 

基本的にはマスコミに対して否定的なのだけど、今回のこの一連の報道を見ていると、この先のマスコミにおける政治や経済系の分野って壊滅的になるのではないかと危惧する。

確かに、ここまで来てしまった以上、財務省を叩くしかないのだろうけど、政治や経済を真面目に追っている記者たちは、どう感じているのか思いを馳せる。

 

そもそもマスコミには期待をしていないけど、存在が必要な部分があることは分かる。なのに、その存在を壊してしまいかねない一歩を踏み出してしまった気がするのは、ワタシだけではないはず。

 

今回のことは、ノーパンしゃぶしゃぶの事件とは別次元のもので、そのことを認識している人もたくさんいるのだろうけど、口に出さない(出せない)状況に陥っていることに、不安を覚える。

『リフレはヤバい』を読んでみた

双日の吉崎さんとマネックスの広木さんのブログで「小幡績」の名前が出てきたので興味を持ち読んでみた。

 

正直なところ、最初に著作を検索したときにありえないようなタイトルが出てきたので、「なんじゃこりゃ?」と思い読むのをやめようかと思ったのだけど、尊敬する両名から出てきた名前なので、意を決して読んでみた。

 

前半は、やはり「これはチョットなぁ」といった内容で、読むのがつらかった。

世論の醸成には反対意見も大切なので、その役目を買うために上梓した本なのかなとも思ったのだけど、力に対して何でも反対する人からお金を巻き上げるための本なのでは?なんて邪推してしまう内容。

 

けど、最後の最後になって、著者の言いたいことが分かって、ホッとした。

 

恐らく、この本の言いたいことは、

・日本はもはや韓国や中国のように、成長を原動力に国力を増していく国ではない。

・なので、これから成長する国に投資をすることで、その上がりを元に国力をつけるべき。

・そのためには強い円でなければならない。

と、言うことなのだと思う。

 

確かに、これからの日本は人口が減少していくことから、積極的な移民政策をしない限り国内の需要は伸びないのだから、内需で成長することは難しいはず。

そして、これからまだまだ成長するであろう韓国や中国を相手に競争するには、国力が減少していく日本では、どんなに頑張っても無理があるので、外需頼みは危険だということも分かる。

なので、これからの日本が伸びていくためには、すでに投下した資本の有効活用とこれから投下する資本の効果的な運用が不可欠であるとの結論は、なるほど!とうなずくことができた。

 

今のアメリカが、その手法で大きくなり、現在もその力を増しているのは分かるのだけど、今の日本でそれを実現するためには、

・まっとうな政治家の擁立

・まっとうな政治の確立

・まっとうな思考力を持った有権者を育てる

・グローバルな舞台で戦える経営者を育てる

この辺のことが必要になってくるはず。

 

これって、どう考えても無理があるよなぁって感じてしまうのが実際のところ。

 

著者の主張には賛成するところもあるけど、現状の日本でこの本の主張を展開するのは結構大変なことなのでは?と、考えさせられた一冊でした。

『読書の価値』を読んでみた

この本、気を付けないといきなり噴き出す可能性があるので、特に電車の中などで読むときは注意が必要です。

著者の独特の表現に、ファンならばまず間違いなくやられます。

 

この手の本って、たいがいHowToだったりすのるだけど、「そんな本書くかな?」と思ってたら、一部そんな表記もあるけど全般的にはエッセイですね。

そして、ところどころにちりばめられている笑いが光ります。

 

 

本を読む人ってそんなに少ないかなぁ?って思ってた。

電車に乗ると、ほとんどの人がスマホをのぞいているけど、それでも視界の中には一人二人は見かけるから。

そこで、なんとなくとある自治体の図書館の利用状況を調べてみたら、一年間のユニークな利用者は、およそ人口の1/5だった。

そして、年間の貸し出し数は利用者数の50倍もあるので、おそらくヘビーユーザーが相当数回転していると考えると、日常的に図書館を利用している人ってかなり少ないのかな?。

50倍の中には雑誌や視聴覚資料を含むので、書籍でとらえれば利用される本はもっと少なくなるはずだから、一般的な市民が図書館で本を借りる数を平均すると、年間では小数点以下の点数になることは想像できるので、著者の指摘する数値はそのとおりなのかも知れない。

 

この間、ある出版社が図書館に文庫本の貸し出しを制限して欲しい旨の主張があって、ニュースになっていた。

今までも、図書館による資料の貸し出しが、著者の利益に影響しているといった議論があったけど、これが出版界から出てくるあたりは、かなり厳しい状況におかれていることは想像できる。

コンビニにいっても雑誌コーナーがとても縮小していて、これも業界の厳しさを表しているはず。

 

個人的には業界がどうなろうとどうでもいいのだけど、コンテンツを提供してくれる著者が減る可能性があることと、そのリンクが切れてしまうのは困るなというのが印象。

 

情勢の変化とともに歪みが生じれば、アービトラージを狙って新たなサービスが生まれてくるのだろうけど、時代の変化に取り残され気味の出版界と完全に取り残されているであろう図書館界は、この先どうなるのかなって、そんなことを考えた一冊だった。

放送制度改革のニュースが出た

これって、日本ではできないと思ってたのだけど、やろうとしてたのねって驚きのニュースだった。

 

笑ったのが、各マスコミの重役が、国益を損ねるだとか、フェイクニュースが流れるだとか、公共的役割を担ってきたとかのコメントを出したこと。

 

国益を損ねる → 十分損ねてきたじゃん

フェイクニュースが流れる → 十分流してきたじゃん

公共的役割を担ってきた → どこが?どの辺が?正座させて問い詰めたい

 

放送法第4条というものを知らなくて読んでみたら、そんな法律があったことに驚いた。

「これ全部、今のマスコミが出来ていないことばかりじゃん!」って。

だったら、いらないのに、その4条を盾に規制を守ろうとするマスコミって何をやっているのか理解不能

まぁ、既得権益を守りたい気持ちは分かるけど。

 

 

今回のこのニュースの根源は、最終的に電波のオークションを入れたいという想いなのだろうけど、現マスコミに一石を投じたのはいいことだと思う。

 

これを機に少しは我が身を顧みてくれるといいなぁ。

マスコミの行方

マスコミの現況

一年ほど前に「テレビ局の行方」という記事を書いたけど、最近はテレビ局として捉えるのではなく、マスコミとして捉えるべきなのかな?なんて思って考えてみた。

 

インターネットが普及したことで、テレビ局が傾いてきたことは間違いのないことだと思う。

 

そもそもインターネットが普及を始めた当初(20年ほど前)は、新しいものに対する興味が優位だったと思うけど、使っていくうちにその即時性や経済性、利便性などなど、当時の情報伝達手段にはない有意性が顕著になってきたことによって、爆発的な普及につながってきたのかと。

ただ、まだインターネットの活用方法については模索が続いていたので、マスコミが作成するコンテンツ(報道も含めて)の方が優位性を保っていたと思う。

 

しかしながら、現在の充実(玉石混交だけど)したインターネット環境が整うと、マスコミはその優位性を確保できなくなり、コンテンツばかりか報道内容まで残念なものとなりつつある気がする。

 

マスコミもインターネットも、そのコンテンツを提供するにあたっては、多くが広告(スポンサー)に依存している部分が多く、その点から見れば経済規模がさほど大きくなっていない状況から、シェアの食い合いが発生しているはず。

つまり、インターネットの普及とともに、現マスコミに落ちるお金が減ってきていることは想像に難くない。

 

また、新聞という媒体の構造も、インターネットと比較すると、印刷・物流・配布という高コストかつ即時性の欠如といった面からあきらかに劣勢であり、そもそも競争にならない環境のはず。

 

だけど、今現在も新聞媒体は無くなっておらず、かろうじてその存在を保っているのは、記事の信頼性なのかと考えるけど、日本の新聞は署名記事がほとんどないことからその部分も疑わしいため、単に購読者の習慣に頼っているだけなのかも知れない。

 

コンテンツの劣化

高コストかつ収入の低下に悩まされているからなのだろうけど、マスコミから提供されるコンテンツが面白く感じなくなっているのは、ワタシの気のせいではないと思う。

 

ほとんどがインターネットから拾ってきたネタの焼き直しだし、何かを考えて作り出そうとする気概を感じないから(すべてとは言えないけど)。

 

また、テレビで最近よく見かける番宣。

あれは多分、番組内にも広告枠を作ることで、コストを回収しようとする方法なのだと思う。

 

あんなことやっていたら、コンテンツも広告だらけになってしまい、その局が放送するものがすべて広告になることで、その局の「表現したいもの=広告」になってしまうという自己矛盾になってしまうのではと、余計な心配をしてしまう。

 

また、報道もあまりにも読者よりになっていて、考える選択肢をあたえず感情に訴える内容ばかりなのが気になる。

自分よりも優位にあるものを引きずり下ろす快感を提供しているのだという観点から見れば、読者の求めるものを提供できていると言えばその通りなので、そういう意味ではサービス精神が旺盛なのかも知れない。

 

ただね、悲しすぎる。

 

マスコミの行方

現在の状況を生み出しているのは、高コストかつ収入の低下が、そもそもの発端なのかもしれないけど、この状況になるまで手を打ってこなかったのはどうなの?と疑問が残る。

 

あきらかに競合するであろうインターネットを軽視した結果なのか、取り込もうとしたけどうまくいかなかったのかは分からないけど、結果的に危機的状況にまで来ていることは間違いないはず。

 

サービスの向上(イヤミです)ばかりに目を向けすぎて、どこか信頼を失ってしまっていることがあるように感じてならないのだけど、それは何となくマスコミの傲慢さからくるもののような気がしてならない。

『シャーデンフロイデ』を読んでみた

前回の記事の「辞任は責任を取ることになるの?」で疑問に感じていたことが、この本で理解することができた。

 

ある意味ビックリ!

 

人間が生きていくため、もっと言えば種の保存のために備えた機能が原因になっていることが説明されていた。

もちろん、それぞれの考え方や感じ方にバラつきがあることは当然なのだろうけど、そもそもが本能に近い部分で制御されているらしいことに、ある意味愕然とするとともにチョットだけ悲しさを感じた。

 

向社会性は、現在の人間社会の形成に必要不可欠であることは理解できる。

残念ながら、その向社会性が人の足を引っ張る行為にも影響していることは、現時点では仕方のないことらしい。

でも、人には本能を制御しながら考えるという技術があるのに、それを放棄して感情に任せた意思表示をしてしまうことは何とかならないものなのかな・・・

 

せっかく考えることができる能力があるのにも関わらず、外部からの刺激に対して反応で応えてしまうことは人としてもったいないし、残念でしかない。

 

これって、教育で何とかならないものかなぁ。

それやったら、洗脳とかって言われちゃうのかなぁ。

世代が進めば、進化として変化するのかなぁ。

 

 

一人ひとりが考えるって行為について、もっと関心が持てないものだろうか?なんて考えてしまった。

辞任は責任を取ることになるの?

よくあるこのパターン。

「今回の一連の責任を取って辞任いたします」

これって、責任を取ったってことになるのかなと、いつも思う。

 

本来の責任を取るって、起こしたことに対する原状回復が優先されることかと思うのだけど、多くの場合がそれを放棄して辞任することが良しとされていることが不思議。

それって、一番楽だよね。

 

今回の森友のこともそう。

「世論は財務大臣の辞任を望んでいる」とか、記者が「辞任を考えていないのか」などと質問するのは、本当に愚の骨頂だと感じる。

 

そもそも、視聴者がそれを望んでいるから、そういう流れになっているのだろうけど、私たちは、それを望んでそうなったとしても何の得にもならず、特に今回の件についてはかえって損失を被ることになるはずなのに、何故それを求めるのかが分からない。

 

単純に、上位にいるヤツを引きずり下ろすことで、留飲を下げたいだけなのだろうけど、その結果自分の首を絞めることになることに何故気づかないのだろう。

 

 

この国の政治がいつになっても良くならないのは、野党がパワーゲームに終始していて、議論を深めることによって実力をつけてこないから、自民党がいつまでも甘い汁を吸ってしまうことにあるはず。

こんな、どうでもいいことに時間を使っていないで、本筋の議論がなされる国会であってほしい。