理解は感情を抑制できるのか?

「頭の中では、分かってるんだけど、何て言うか胸のこの辺がモヤモヤして」なんて表現に出会ったことが何度かある。

 

個人的に、この感覚が良く分からない。

イヤ、分からないでもないから、どこかで同じ感覚に襲われたことがあるのかも。

過去の経験からかも知れない。

でも、このモヤモヤ状態って理解しているけど納得できない状態のことを指すのだろうけど、これって理解していないのでは?というのがワタシの見解。

 

 

 言葉が進化した場合感情がなくなるのでは?と昨日の記事にも書いたけど、言葉で他者との相互理解ができるようになった場合、納得はできなくても理解ができるのであればリスクが無くなるので「誰か」に対する恐れが無くなるはず。

と、いうことは「恐れ」がなくなるのならば「喜び」も無くなるのではとも考えられる?

 

でも、ダメか!

「誰か」が「私」を殺したいと考えていたならば、理解ができても恐れは生まれてしまうか。

対人関係から発生した殺したい願望は無くなるかもしれないけど、興味から発生した殺したい願望は無くならないから、それに対応した「恐れ」は必要だよね。

 

そうか、理解が感情を抑制できる条件として対人関係上と定義すれば、当てはめることができるのではないかなぁ?

 

あれ?自己顕示欲って他者がいるから生まれる欲求だろうけど、あれって欲求もしくは欲望なのかなぁ?欲って漢字を使うけど、あれは感情なのではないかなぁ?

そうだとすれば、他者の理解をしても対人関係上の感情は生まれてしまうのか・・・

 

欲と感情は違うと思うのだけど?

食べる行為に感情は無いし。

 

 

どうでもいいことだけど。

 

百年シリーズの言葉を借りれば、「定義があいまいだ」なのかな。

だから思考の道筋がつけられないのだろうと思う。

『ペガサスの解は虚栄か?』を読んでみた

何年も前のこと。

「人間にとって感情って必要なのかな?喜怒哀楽でいえば少なくとも怒と哀は無くてもいいと思うんだけど・・・」

と、誰かと議論した記憶がある。

その議論の行きついた先を覚えていないんだけど、個人的に納得できなかった記憶だけが残っていた。

 

さっき、グーグル先生に同じことを聞いてみた。

すると、同じようなことを考えている人がいることが分かって、少しだけ嬉しくなった。

「こんな変なこと考える人が他にもいるんだなぁ」って。

その質問の回答の中に、感情は生命の維持に必要な原始的な要素から派生したと表した記事があって、

「あぁ、なるほど」と思った。

人にとっての不快なものって、生命維持になんらかの障害になりうるものに対してだろうし、その反対は障害から遠ざかった状態なのかなって。

 

この感情ってものは人間(もしくは人間と称されるあたりにおける進化の過程での生命体)が社会生活を営む術を覚えて行く中で、言語を習得する前において必要な能力(コミュニケーション)として進化(もしくは深化)させてきたのもかと考えてみた。

そう考えれば怒も哀も社会生活を営む上では必要なものだと理解できる。

だとすると裏を返せば、言葉が進化することによって、感情はいらなくなる可能性もあるってことか?

 

 

学習そして思考が深化することによって感情が生まれたのならば、小説ではあるけれども考えうる一つの未来の形なのかもしれないと思わされた一冊だった。

 

 

この本は、著者の森博嗣さんの過去の作品では見られなかった表現があって驚かされた一冊だった。

個人的にはいい表現だなと感じた部分があったのだけど、いままで著者があまり使ってこなかった表現だったので、もしかしたら読者サービス(本を売るための技法)の一端なのかもと勘ぐってしまった。

 

 

でも、おもしろかったなぁ。

希望の党の失速について

衆議院議員選挙が終わってみれば、あれだけ勢いのあった希望の党の失速が鮮明となった。

希望の党から新人として(前・元議員ではなくということ)立候補した人で当選した人って何人いるんだろう?

 

失速の原因として、民進党のリベラル派と称される人たちを「排除」という言葉を使って公認しなかったことと、自らが立候補しなかったことが挙げられている。

「排除」の言葉を初めて聞いた時に、「随分ときつめの言葉を使うんだなぁ」と感じたけれど、「まぁ当然だろうな」と思った。

だけど、この「排除」の言葉に随分と噛みついた人たちがたくさんいて、そのことに驚かされた。

 

そもそも民進党がうまく回っていなかったのは、ベクトルの違う人たちが無理をして一緒にいたからなので、その原因を引き継いでしまったら、折角新党を作った意味が台無しになってしまうはず。

全員を公認してくれと言うこと自体おかしいし、公認を期待していた当時の現職の矜持の無さにも幻滅する。

 

その後、それではってことで立憲民主党ができたけれど、枝野さんがそれを宣言したときは「遅きに失した」と感じていた。

本来なら、民進党の前原さんが希望の党と合流するといったときに、「そんなのありえない。だったら独立する」と言って立憲民主党を立ち上げたのならば当然だろうなと思うけど、「排除」の言葉によってあぶれて行き場を失った議員を救うために立ち上げた政党にしか見えなったから(事実そうだろうけど)、今さら新党立ち上げても遅いでしょうと。

 

なので、都議選の勢いからしてみても希望の党はそこそこ伸びるのでは?と感じていた。

 

これがフタを開けてビックリ。「排除」の言葉に有権者が反発したのか、希望の党が全然ダメで新人がほとんど当選していなかった。

これでは「元民進反リベラル党」と名付けても通ってしまうのではないかというような情勢に。

結果的には旧民進党が分裂して、新しい政党ではなく新しい名前の政党が2つできただけとなってしまった(あるべき姿になったと言えなくもないけど)。

 

今回のこの選挙で一番不思議なのは、有権者は何を求めていたのだろう?ということ。

都議選の時にはあんなに熱狂していたのに、同じ東京でまったく別の結果がわずか数か月で出るとは驚かされる。

しかも、小池さんとしては表現の良し悪しはあったにせよ、当然の判断を下したのであって、そんなに驚くことでも無かったはず。

もし本当に「排除」の言葉が良くなかったのであれば、選挙って何?と考え直す必要がある気がする。

 

ただ、あくまでも個人的には、今回のこの結果は「良かった」と感じているところ。

決して現与党が良いとは思わないけど、それ以外はあり得ないと感じていたから。

 

まぁ都民でないからどうでもいいけど。

成功体験が邪魔をする

「あぁ、なんかうまくいかないなぁ」って時が良くある。

そんなとき、何となく卑屈になって、自分だけが世間から取り残されたような感覚に囚われたり。

 

 自分が何か行動をするときって、その行動の先に得るものがある(ような気がする?)からであって、何もないと分かっていながら行動することってないんじゃないかなぁ。

 

その、得ることができるかもって判断は、多くの場合過去の経験則に則っていると考えられるので、今の自分の判断は過去に自分が体験した結果とその量に支配されているのではないかと。

 

だけど、「あれ?こんなはずじゃ!」ということになってしまうことも多々ある。

「あの時はこれでよかったのに」って。

 

これを「運」で済ましてきたなって、さっき気が付いた。

 

うまく行かないことを「運」のせいにすることで、自分を正当化してきたんだって。

 

過去の成功体験がうまくいかないのは、今を形成するパラメタが過去のパラメタと違うから、その修正が必要なことに今さら気が付いた。

政見放送を聞いていて思うこと

色々な政党があって、色々な立候補者がいて、それぞれがいろいろな主張をしているのかと思えばそうでもないことに気がついた。

 

現与党は今までの政策の正当化。

現野党は今までの政策の批判。

 

まぁ、現与党は自分たちが主張してやってきたことだから、正当化するのはあたりまえのことかと。

だけど、現野党は批判するばかりで、「何がダメだったのか」「どうするべきだったのかの対案」「それはなぜか」の主張がまるでないことがとても残念。

 

批判することで同意を得ようとしているようだけれど、恐らくサイレントマジョリティーは気づいている。と思う。

だけど、前回の都議会議員選挙のようなことがあるから、サイレントマジョリティーなんていないのかな。とも思う。

 

 

テレビに出演する識者は「みんな選挙に行こう」と言っているけど、そもそも考えることを放棄して感情論に任せた判断の一票だったら、投票して欲しくないと考える人がいても不思議ではない気がする。

 

 

そもそも政治なんて、国や自治体における構成員からみれば、力がない人々が力から逃れて生きていくために必要な費用負担を決定する装置なのだから、本来有権者にとって嫌なことを決定して実行していくことが求められているなず。

なのに、街頭演説や政見放送ではそのあたりの主張や方法論がほとんどなくて、耳当たりの良さそうな言葉ばかりが聞こえてくる。

候補者のHP見てもあまり伝わってくるものがないし。

 

 

何をもとに投票の判断をすればいいのだろうとフト考えてしまった。

豊洲市場移転のニュースが静かに流れてる

衆議院議員選挙のニュースが多く流れている中で、コッソリと豊洲市場移転関連のニュースがあった。

 

 騒ぎが大きくなって(して?)から1年近く経つのかな?

 

結局あれだけ騒いで何を得たのだろう?

責任を明確にするとか言ってたような気がするけど、どんな責任が明確になって、それで何を得たのだろう?

延期することで大きな費用負担が発生したけど、その費用対効果はどのくらいあっただろう?

 

 

ひところのあの喧噪がまるでなかったことのように、来年の秋頃に移転が始まるとのニュースが流れている。

都知事に乗せられて、あれだけ世間を煽っていたマスコミが、これだけ静かにその結果を流すことに不自然さを感じる。

 

本来なら、あれだけ騒いだのだから、その結果について検証するべきなのに、都合が悪くなったのかな。

 

そもそも、ニュースの受け手側のリテラシーが低いからなのだろうけど、それを利用して売れる記事・報道のみを優先するその姿勢について、そろそろ振り返る必要があるのではないかと最近強く思う。

 

確かに民放や新聞社は売れてナンボだろうから、その辺のことは理解できるけど、NHKまでもが同じ姿勢なのがチョット。

 

このままでは衆愚政治ならぬ衆愚報道なのでは?

『金融庁vs.地銀』を読んでみた

タイトルに惹かれて購入してからおそらく1か月以上は経過しているはず。

ようやく読み終えた。

 

まぁ、読了まで1か月以上かかったのは、やはり単にあまり面白くなかったから。

裏話的なものはあまりなく、編者が過去に流したニュースをまとめて1冊の本にした感じ。

 

タイトルに「vs」なんて付けるから、お互いのせめぎ合いが描かれているものと勝手に解釈した私が悪いのだけど、それにしてもチョット。

 

確かに地銀が、というか大手行でもそうだろうけど、そもそも金融庁になにか物申すことなんてできるはずがないもんね。

 

 

そもそも金融庁の成り立ちってバブル以降の処理を、やらかしてしまった財務省(当時大蔵省だった?)から切り離して行わせるために生まれたはず。

確かに当時の金融機関は、大きな荷物を自ら下ろすことが出来ずにいたので、危機感を感じた政府が大ナタを振るう必要があったことは良く分かるところ。

でも、今の時期って何を仕事にしているのだろうと思う。

本によると、貯蓄から投資の流れを作るのと、金融機関の積極的な貸し出しを指導するみたいな紹介があったけど、それって金融庁の仕事なのかなぁと感じる。なんかやること無くなっちゃったから新しい何かやらないとねみたいな、まさに公務員の発想になっているような気がして。

確かに一度作ってしまった組織を、解体や再編するって大変だけど。

 

あぁそうか。金融庁なんて組織を作ることに財務省が応じたのは、席数が増加するからなのかも知れないなんてフト思った。内閣府が所管だろうけど影響力は大きいもんね。

 

そうそう、それはそれとしてニュースで流れてたけど、十八銀行親和銀行の合併について公取委がマッタをかけていること。

金融庁はどんどんやれ!と後押ししているのに公取委がマッタをかけるってどういうこと?

これは政府内で調整しないとまずいんじゃないのかなと、余計な心配をしてしまう。

政府内では同じような立ち位置だからライバル視しているのかもしれないけど、放っておけない問題を公取委自ら生み出してしまった感がある。

確かに金融庁の長官の存在が目立つから、公取委としては足を引っ張りたくなる気がするのも分かるけど。